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長安寺

長安寺は約九百年前に建立された寺院です。
浄土真宗 真宗大谷派、本山真宗本廟(東本願寺)です。

私たちの真宗
私たちの真宗一覧
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浄土真宗の教え
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住職

当山、片杉山長安寺は平安時代末期に創建され、以後九百年の歴史を有しています。この間、寺はいつの時代も御門徒の皆様の厚い御信心と護法愛山の精神によって支えられ、今日まで護持相続されて参りました。心より感謝申し上げます。
多くの方々が犠牲になられた東日本大震災や、疫病、社会の混迷など、悲しみや不安の時代が続いています。激変する社会状況において、寺が果たすべき役割とは何か?ということを今一度見つめ、寺是である「手を合わせ 願い共に歩まん」の下、法要や仏事、法座などを通して親鸞聖人が開かれた「南無阿弥陀仏」というお念仏の教えにたずねていきたいと感じております。
長安寺という場が、真の意味で皆様の心の拠り所となるよう、今後ともご門徒、地域の方々と共に歩んで参りたいと思います。よろしくお願いします。

住職

当山、片杉山長安寺は平安時代末期に創建され、以後900年の歴史を有しています。この間、寺はいつの時代も御門徒の皆様の厚い御信心と護法愛山の精神によって支えられ、今日まで護持相続されて参りました。心より感謝申し上げます。
多くの方々が犠牲になられた東日本大震災や、疫病、社会の混迷など、悲しみや不安の時代が続いています。激変する社会状況において、寺が果たすべき役割とは何か?ということを今一度見つめ、寺是である「手を合わせ 願い共に歩まん」の下、法要や仏事、法座などを通して親鸞聖人が開かれた「南無阿弥陀仏」というお念仏の教えにたずねていきたいと感じております。
長安寺という場が、真の意味で皆様の心の拠り所となるよう、今後ともご門徒、地域の方々と共に歩んで参りたいと思います。よろしくお願いします。

由緒・沿革

寺伝によれば、開基は正善坊です。金(安倍)為時4代の嫡孫に次郎丸為正という人があり、若年ではありましたが深く無常を感じて出家し、比叡山に登り正善坊と号し東搭の内に住しました。その後、支那の長安の都に留学したと伝えられます。後、本国に帰り気仙に下向して日頃市に一字を建立して「長安寺」と命名しました。
 正善坊から数えて二十一世の住職までは天台宗を唱えていましたが、二十二世正光坊の時代、明徳年間(1390-1394)本願寺第六世巧如上人の時、真宗に改宗しました。以来ここに二十世の衣鉢を伝えて今日に至っています。火災に遭い、寺宝古記等ことごとく焼失しているので、古い事の詳細を知る資料に欠けています。

山門は寛政8年(1796)に着工し、同10年(1798)に竣工したものです。この山門建立に当っては、藩主の止木である欅材を使い、又、仙台にもない高楼を建てたことは、藩主に背くものであるという理由で、再三取りこわしを命ぜられました。その都度釈明して取りこわしは免れましたが、以後は一切手をふれてはならぬ、ということで許され、その為、今日まで袖なし、ひらきなしの山門となっています。この藩主お咎めの弁明役に当った廓念坊秀諦師の命がけの苦労談については、今の西法寺に古文書が残っています。
 太鼓堂は、当寺中最も古い建造で、寛保2年(1742)の建立になり、桃山時代の建築様式を忠実に表現した文化財として評価されるものです。
 本堂は一八間四面。住職十七代正恩の時代、明治5年(1872)着工し、同13年(1880)完成しており、その欅材は仙台藩の山林の無償譲与を受けたもので、まれに見る巨本です。その巨大な大伽藍はまさに東北屈指の大寺院です。(「大船渡市史」による)

	長安寺山門
・所在地: 大船渡市日頃市町長安寺
・建 立: 寛政10(1798)年培工、完成は寛政年間
・棟 梁: 松山の五郎吉

山門は気仙大工の最高の遺構です。山門の棟梁は松山の五郎吉と言います。
 身心共に壮健な人であり、天保13(1842)年3月15日、89歳で卒去とあることから山門着工の寛政10(1798)年は45歳であり、もはや何事にも恐れを知らぬ男盛りであったと伺えます。
 長安寺山門記には、数々のエピソードが語られてきましたが、有名なのは「槻と欅争論」です。仙台領では「御留木」と称して樫を含む八品種は使用してはならない決まりがありました。当然役人が調査に来て、責任者が仙台の御評定所(役所)に呼ばれて調べられました。その弁明に赴いた方が、正徳寺生まれの秀諦坊様でした。当時の取り調べは、拷問を伴う自白の強要です。「唐竹百叩き」の刑に服しながら、「あの用材は決して欅ではなく、槻の木でございます」と詭弁を弄してはねのけました。
 役人には欅と槻の区別がつかなかったものか。連日の責め苦にあい、息も絶え絶えの秀諦坊をからかって、「浄土真宗には説経があるそうだが説経してみよ」と。それを聞いた秀諦坊は「拙僧に対する侮蔑は受けられるが、真宗に対する侮りは赦し難い、説法を聞きたくば衣を着けさせよ、畳三尺下がって聴け」との大音声に、これは相当の高僧であろうとの判定で、「以後、山門工事に手を加えてはならない」との事で、扉を付ける事を許されない「袖なし扉なし」の山門と呼ばれて今日に至っています。
 楼門(山門)建立の棟梁の決定は五郎吉の描いた絵図面の見事さにありました。当時は伊達領にも南部領にも見たことがない、二層の楼門などは誰にも想像すら出来ませんでした。仙台東照宮には、随身門はありますが、二層ではありません。その壮大さに打たれた御本坊の決断により、五郎吉の棟梁就任が決まりました。

五郎吉は着工するや、百日間を陸前高田の小友から大船渡の日頃市まで徒歩で通い通すとの心願を固めて実行しました。当時の就業時間は明け六ツ(6時)から暮六ツ(6時)まで思われ、その時間に間に合うように通うには大変な労働でした。さらに家族の方々も苦労したと語られています。そのたゆまぬ努力に「盛六郷」(盛町を構成する6つの村)の大工達も畏敬の念を禁じ得なかったことでしょう。そしてこの棟梁なら楼門建立を成し遂げるであろうと、協力する機運が盛り上がりました。
 なお、長安寺山門の絵図面は昭和24(1949)年、西方寺(長安寺の下寺)お堂屋根替えの時、葺き茅の中から発見されました。

長安寺には長年のお抱え大工に田茂山村(現・盛町)の古沢一族がおり、同寺の太鼓堂は二層で東西には軒唐破風が造られています。その造りが変わっていて、隅木の外に並行に「桔木(はねぎ)」が晒しで使用されています。古沢一族達の工夫の見せ所です。同じ雛形で制作した田茂山村の洞雲寺龍宮門にも軒唐破風があります。本来であれば長安寺山門も古沢一族によって造営されるべきだったのかもしれません。ところが西法寺の秀締様が小友村の正徳寺から迎えられた名僧だったので、彼の竹馬の友である小友村松山の吾郎吉にも山門設計の相談があったのでしょう。吾郎吉は東本願寺の楼門を型取って設計しました。お咎めは覚悟の上だったのでしょうが、秀締坊の機知に富んだ弁明により取り毀しは免れました。

長安寺の樹木

 境内には、推定樹齢420 年のイチョウや奥州しだれ桜と呼ばれる名木が人々を見守っています。
 大船渡市の特別天然記念物にも指定されており、春には桜、夏には青々とした緑、秋には長安寺大イチョウ、冬には雪景色を。
四季折々の景色をも楽しむことができます。

長安寺俯瞰図
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